映画レビュー 「この世界の片隅に」

2017年01月21日 21:30

巻き込むことの責任。

見終わった後、じっくり考えてそんな言葉が浮かんできました。
映画「この世界の片隅に」のレビューです。

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今、巷で話題になっているこの映画ですが、
最初は全国でも20くらいの劇場で1ヶ月くらい公開されるだけだったのですが、
あれよあれよと言っているうちに、気付けば公開から2ヶ月が経ち、公開している劇場も瞬く間に増えました。

ちょうど公開日あたりでは別のアニメ映画「聲(こえ)の形」も公開が始まっていて、公開順にそっちを見に行っていたら
「この世界の片隅に」が延び延びになってしまって、ついこの前ようやっと見に行くことが出来ました。


これまで幾度と無く描かれてきたであろう太平洋戦争と、広島と原爆。
それをアニメ、漫画で描いたもので見たことがあるのは「はだしのゲン」や「蛍の墓」ですが、
「この世界の片隅に」はそれらの作品より、入り込むのにとても容易な雰囲気があります。
「はだしのゲン」は原爆の投下から始まり、孤児となった主人公が大きな現実と戦いながら生きる、
「蛍の墓」も孤児の兄妹がやはり現実を目の前に、維持を張ってでも2人で生き抜こうとする。

「この世界の片隅に」はそういった映画とはまた違った視点から描かれています。
主人公は小学校のクラスに一人くらいは居そうな少し想像力が豊かなのんびりした性格。何か強い信念を持つわけでもなく、流れるままに生きています。
世の中に対してほぼ抵抗ゼロです。絵柄も相まって見る側の抵抗も無く、癒しすら感じます。

主人公だけではなく、それを取り巻く人たちも世の中にあまり抵抗することなく生活をしています。
そんなキャラクターたちのすぐそばで、戦争は起こっています。
みんな戦争に巻き込まれながら、これが世間的に良いのだと思って
みんな協力して戦争を乗り切ろうとしています。

みんなが一緒に生きようとすれば喧嘩やすれ違いも起きます。
でもそれはごくごく一般的な、僕らの世界にも起きていることと同じです。
同じことが戦争時代にも起きていたということです。

僕は、この時代の人たちは戦争を天気のように思っていたのではないかと思いました。
光化学スモッグが起こる日のように、突然の雷雨に見舞われるように、異常気象で季節はずれの雪が降るように、
敵の戦闘機がやってきて、銃弾や爆弾を降らせていた。
そんな簡単な感覚だったように感じました。

僕らが時折テレビなどで見る記録映像としての、焦土と化した都市やきのこ雲や人々の焼け爛れた皮膚はとても強い衝撃を与えます。
でもそれらはあまりにも現実離れしていて、今現在の僕らの生活と繋がっているように思うには何かが足りませんでした。
しかしこの映画でその繋がらない部分が埋まっていくような感覚を覚えました。



そして日本は戦争には負けます。
それまで時代が選んできた「良いもの・こと」「良き人物」。それらは戦争に負けたことによって意味を成さなくなります。
では、それに流されてきた人はそれまで「良いもの」「良き人物」と思っていたことをどう再解釈すればいいのでしょうか。
僕ははっきりとした答えは出てこないと思います。
「良いもの・こと」「良き人物」は時代が変われば「嘘」に成り得ます。でもその時代に生きていた人にとってはそれは「支え」であったと感じるのです。
「支え」であったのならそれを簡単に「嘘」とすることは出来ません。それをしていたら自分が分からなくなるからです。




巻き込むことの責任。
実はこの言葉が浮かんだのは、映画を会社の人たちと見に行った後の夕飯の中で宮崎駿の話になったところからでした。

宮崎駿率いるスタジオジブリは2014年から映画を制作する部門を解体しました。
僕はその経緯とその後の宮崎駿の動向を紹介したNHKのドキュメンタリを見る機会がありました。
その中で宮崎駿はのんびりとコーヒーを入れて、引退を宣言した後も若い人たちと3DCGを使った新たな映像に取り組んでいる姿を見たのです。
僕はその姿に違和感を覚えました。
宮崎駿ほどの人が、なにのほほんとコーヒーを入れているのか。スタジオを解散したのになぜ新しい映像を作っているのか。
アニメーターがどれほど苦労して働いているのか、想像できない人ではないと思います。
それを知ってなお、業界を狭くするようなことをするのか。雇用を維持することが業界を生かすことになると思わないのか。
過去のテレビやネットを掘り返せば「長編映画を今までのペースで作ると出来るまで時間が掛かってしんどいから」と聞きます。
しんどいから止めるというのはどういうことなのでしょうか。ではなぜまた新しいことに挑戦しようとしているのでしょうか。
宮崎駿は間違いなく影響力の強い人物です。アニメ業界では頂点といってもいいでしょう。
そんな人が何を思って綺麗に終わらせようとしているのでしょうか。
僕らが宮崎駿の年齢まで生きて、綺麗に生ききることが果たしてどれほどの人が出来るでしょうか。

子供達のために作った自然豊かな幼稚園、人権・自然保護活動、全ては宮崎駿という強い人物像があってこそ意味を成していると感じます。
ではその宮崎駿を強い人物像たらしめているのは何なのでしょうか。



戦争も結局は強いものに巻かれた結果です。
巻かれた者は否応無く価値観を選択する機会を奪われていきます。

その流れに逆らえないならば、せめてその信念・強かさを誇れるような姿でいたいのであると、
この映画は語りかけているような気がしました。

またこれも、僕らが普通に生きるのに多少なり必要なことだと感じました。



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